Sfera Bar SATONAKA

Categories
Recent Comments
Profile
Other
Search This Site

Weblog

京都南座 吉例顔見世興行

吉例顔見世興行 東西合同大歌舞伎 二代目中村錦之助襲名披露 

minamiza0712b_handbill.jpg


11月30日に初日を迎える京の年中行事『南座 吉例顔見世興行』恒例の“まねき上げ”が11月24日〜25日にかけて行なわれました。
TS3E0033.JPG

街中のクリスマスイルミネーション、年末ジャンボ宝くじ、紅白の司会・出演者の発表、大晦日の格闘技の対戦相手の発表………
あぁ〜これ聞く(見る)と今年も終わりやなぁ〜っていうのあるとは思うんですが、京都の人はこれなんでしょうか…

で本題なんですが、29日に深夜のお客様も帰られ今日は切れるのが少し早いしちゃっちゃと片付けて飲みの行こうかなって考えてました。
まだいい?って某有名歌舞伎役者さんが一人でふらりと顔を見せてくれました。また今年も1ヶ月よろしくねって…
こちらがよろしくお願いしますです。明日初日なのに前日にわざわざ来ていただき恐縮です。。

前の前のお店の時から12月になるとお顔を見せてもらえ、もう15年ぐらいになるんでしょうか…
私にとっては何よりも○○さんのお顔を見ると今年もあとちょっとって思ってしまいます。
ちなみに南座は、元和年間(1615〜1623年)京都四條河原町に公許された7つの櫓の伝統を今に伝える唯一の劇場である。四条通りをはさんだ7つのうち、明治を迎えたのは2座のみで、明治26年に北側芝居も廃座となり南座だけが歌舞伎発祥の現在地に残った。

明治39年(1906年)白井松次郎、大谷竹次郎兄弟の松竹合名社が経営に当たる。そして大正2年に改築。さらに昭和4年、由緒ある櫓を備えた桃山風破風造りの豪華な劇場を竣工させ、以来激動の昭和期を通し京阪の代表劇場として多様な演目を取り上げた。取り分け京の年中行事となった歳末の吉例顔見世興行は戦中も一度も絶えることなく続けられた。

平成3年、松竹株式会社会長永山武臣により、京都の街の景観にとけこんだ外観はそのままに内部を全面改修し、最新設備の近代劇場として改築され、11月新装開場記念吉例顔見世興行によって新時代の幕を開いた。

吉例顔見世興行についてですが、格別の歌舞伎ファンでなくとも年中行事となっているのが京都の顔見世です。そもそも顔見世とは、向こう一年の新しい役者の顔ぶれを披露するための興行でした。歌舞伎役者は元禄の時代(一六八八〜一七〇三)頃までに、各座と役者が一年ごとに契約を交わす制度となり、その契約更改が年の瀬を前に行われました。毎年、人々は「今年はどんな千両役者が誕生するのだろう」「どんな大スターが南座に来るのだろう」と噂しながら吉例顔見世の幕が開くのを待ったそうです。つまり歌舞伎の世界では、顔見世が一年の最初の公演であり、新しい年の幕開けなのです。 
ですから、顔見世は京都に限ったことではなく、歌舞伎の世界の慣わしだったのです。しかし、役者と劇場の一年契約制度が寛保年間(一七四一〜一七四三)には崩れたようで、その後も顔見世興行は続いていたものの、江戸では幕末期に姿を消してしまいました。でも、京都の南座だけは顔見世の伝統が脈々と守られ、それが今日あるというわけなのです。(現在は各地で再び顔見世の名が復活しています)
こういう歴史を知れば、「まねき」に名題以上の役者名が上がる意味や、正面屋根上の櫓と天に伸びる二本の梵天、それに劇場前を飾る大提灯も顔見世において新調され、それから一年を通じて使用される意味がわかります。南座は顔見世において、一足早いお正月を迎えているのです。とくに神が降りるという梵天は、古法にのっとって精進潔斎をし、昔ながらの美濃紙でつくられています。 他の劇場ではプラスチック製の梵天がまかり通る中で、南座だけの伝統です。そして「まねき」もまた、南座だけのものです。「まねき」書きは、一人の職人の手によって五日間で約五十枚の役者名が書き上げられます。その文字は独特の勘亭流で、観客が隙間なく入りますようにとの願いを込めて、内へ内へと巻き込むような字体です。字を書く墨は、酒で薄めて使います。長さ一・八メートル、幅三十二センチの檜の大板に書く時間は、一枚約二十分だそうです。字の勢いが命なので、筆の動きはかなり早いのですが、書き損じは許されないので、当世ただ一人の「まねき」書きなのだそうです。
misc. | comments (0) | trackbacks (0)

Comments

Comment Form

Trackbacks

go to page_top